To Be a Good Company

寺川 綾

数々の挑戦を支えた仲間、コーチ、ライバル。
それは、どこか損害保険のような存在。

日本の水泳界をリードするスイマーとして日本選手権やジャパンオープンで優勝。ロンドンオリンピックでは100m背泳ぎ、4×100mメドレーリレーで銅メダルを獲得。引退後は、報道番組のキャスターをはじめ多方面で活躍している。

選手時代を含めて、輝かしい栄光に包まれた日々。2020年東京オリンピック・パラリンピックのゴールドパートナーである東京海上日動がその航路に刻まれた挑戦と決断、競技人生を支えたコーチや仲間について伺った。

バルセロナオリンピック、
岩崎恭子の金メダルに発奮する

水泳を始めたのは3歳。小児喘息の治療の一環だった。「両親も水泳選手ではなかったし、選手にするつもりはなかったと思います。」と、ご自身も言うようにあくまで健康のための水泳。ところが、8歳の時にみたバルセロナオリンピック、岩崎恭子の金メダルで気持ちが一変する。
「あの金メダルで初めてオリンピックという世界的な舞台があることを知りました。自分もあそこに出てみたいと、強く思うようになりました。」

14歳の中学生が自己タイムを4秒43も短縮してオリンピックレコードで金メダル。その快挙が日本中を熱狂させた。そしてそれは、一人の少女の人生を変えることになる。オリンピックという目標を得た少女は、瞬く間に日本を代表するスイマーへと成長した。そして、2004年のアテネオリンピックに出場、200m背泳ぎで8位入賞。しかし、2008年の北京オリンピックでは代表入りを逃してしまう。オリンピック後、悔しさをバネに大きな行動に出る。水泳界の名伯楽、平井伯昌コーチの門戸を叩いたのだ。
「それまでも数多くのメダリストを輩出しているわけです。平井先生のところには、何かがあると思っていました。実際に入ってみると、練習方法はそんなに変わらないのです。徹底しているのは選手との綿密なコミュニケーション。練習の意図を明確に説明し、常に先生が考えていることを伝えてくれる。嘘偽りがなく、真摯に水泳と向き合い、選手とコーチがいつも同じ方向に進む中で、強い信頼関係が芽生えていきました。」

当時の水泳界では、コーチを替えるというのは考えられないこと。それは同時に大きな挑戦でもあった。

金メダルを賭けたフォーム改造
人生最大の挑戦だった

「どんな時でも現状がベストだとは思いません。新しい可能性を見つけたら、それに挑まずにはいられない。何もしないで終わるのが一番嫌いです。」と生来のチャレンジ精神をのぞかせる。
しかし、本当の挑戦はロンドンオリンピックを間近に控えた2010年、金メダルを賭けたフォーム改造である。しかも、前年の日本選手権で50m、100m、200mの背泳ぎ三冠に輝き、同年の世界選手権で日本代表復帰を果たしている。順調に結果を出している時期のフォーム改造は、あまりにリスキーではなかったのか。

「それまでの泳ぎ方では、日本では勝てるが世界では勝てない。金メダルを獲るためにはフォームを根本から変える必要があるというのが、平井先生やフォーム分析班の見解でした。それはまさに、人生最大の挑戦でした。どう変えたかというと、それまで腕でかいていたのを背中でかくようにする。かく時に手の小さな筋肉ではなく、背中の大きな筋肉を使うことで水中でのパワーを引き出す。泳いでいる時の映像を見ながら平井先生や分析班と何度も何度も話し合いました。フォームを変えた瞬間は、あまりにフィットせず、正直終わったと思いました。」

失敗したらすべてが水泡に帰す人生最大の挑戦は、「何かを変えなければ新しいものは見出せない」という平井コーチの信念と、それを信頼する寺川の思いが支えた。そして、「2011年の春から夏にかけて記録が伸びるなど結果が出てきた」というように、新しいフォームを手に入れてロンドンオリンピックに臨むことができた。
「ロンドンオリンピックでは、予選、準決勝とあまりいい泳ぎができず、決勝のレースプランで悩みました。金メダルを狙うためには、これまでやったことのないレース運びで勝負に出るしかなかったのですが、平井先生がいつも通りのレースをやってメダルを獲ろうと言ってくれて、それでふっ切れました。」

女子背泳ぎ100m決勝、58秒83の堂々たる日本新記録で銅メダル。日本競泳女子では史上最年長でのメダルとなった。

最初は苦手だった
報道番組のキャスターへのチャレンジ

引退後は、報道番組のキャスターとしても活躍中。これもまた大きな挑戦である。
「実は最後の最後まで悩んで、自分では決めきれなかったんです。人と会話をするのは好きですが、物言わぬカメラの前で話すなんて、私には絶対にできないと思いました。しかも、生放送で限られた時間内にまとめなくてはならない。でも、周囲の人は絶対にやりなさいと、100人いれば100人が言いました。たとえ失敗して辞めることになったとしてもやるべきだと。それで、チャンスをいただけるだけでもありがたいことだと思い挑戦することにしました。現役時代は、他のスポーツに目を向ける時間がなかったので、様々なスポーツの現場を取材して、競技への取り組み方や考え方がそれぞれ違うことを目の当たりにするなど、本当に勉強になっています。」

現役時代は、タイムを縮めることが日々の目標で、その先にオリンピックという大きな夢があった。そして、その過程でフォームを変えるなどの挑戦があり、目標への推進力となった。引退後は、世界が一変する。
「引退して、目標をもつことの難しさを感じています。現役時代は、日々の練習の延長線上に目標があり、それをクリアすることで前進していきました。記録を出せば、世界選手権やオリンピックというステージが用意されている。引退後は新しい挑戦をすることで、思わぬ世界の門戸が開かれたりする。今まさに、報道番組のキャスターなんて夢にも思わなかったことをやっているわけですから。」

形は違うが現役時代も引退後も、挑戦は常に目標に近づくための原動力だった。様々な挑戦を支えるのが損害保険だとしたら、寺川の挑戦を支えてきたものは何だったのか。
「仲間ですね。あんなに辛い練習に耐えられたのも仲間がいたからです。もちろん、平井先生やスタッフの皆さんもそうです。家族以上に濃密な時間を共にし、一つの目標に向かって進んでいく。あの時間はかけがえのない財産です。また、たくさんのライバルにも恵まれました。彼女たちがいたからこそ、常に高い目標をもち続けることができた。プールから上がれば仲間ですので、助け合い安心できる存在として今でも繋がっています。身近な存在だけでなく、日本の水泳界全体を長年支えていただいている企業の方々もいます。日本水泳連盟のオフィシャルスポンサーである東京海上日動もそうです。水泳選手にとって、とても頼もしい存在です。」

輝かしい銅メダルの陰には、たくさんの仲間たち、コーチ、スタッフがいた。その存在は、損害保険の本質と、どこか通底する。そして、挑戦は決して一人ではできないということを、銅メダルへの道程に刻まれた数々のエピソードが示している。